「ウラヒカン? なに……」
きいたことのない言葉が朱華の耳に届く。
けれど男は未晩の言葉を無視して硝子のような琥珀色の瞳で朱華に向き直り、言葉を遮る。「こちらこそ訊きたい。お前はこの男の何を知っているんだ? お前はこいつに何を求め、その見返りに何を与えようとしていたのか?」
氷のような視線を投げかけられ、朱華は言葉を震わせる。
「し、師匠は、あたしが孤児になったのを拾ってくれて……」
「どうして孤児になったんだ? それまでお前はどこで何をしていた?」厳しい言葉が朱華に襲いかかる。未晩は抵抗を諦めたのか、がっくりと頭を垂れて呻き声を漏らしている。
「朱華は、十年前の流行病で親を失ったんだ。それで」
「お前には訊いていない。神無(かむなし)の逆さ斎」遮るように言い返した男の言葉に、朱華は目をまるくする。
「……え? サカサイツキ?」
――師匠は逆さ斎なの? 至高神に愛された『天(カシケキク)』の末裔じゃないの? 朱華の問いかけるような視線を受けた未晩は、ふっと淋しそうに微笑を浮かべ、しずかに頷く。 翡翠色の瞳に、陰りが生まれる。「まさか僕のことを知っているとはな。さすが桜月夜」
「里桜(さとざくら)さまはすべてお見通しですから」場違いなほど朗らかな緋色の髪の少年の声が、緊張しきっていた空気を知らず知らずのうちにほぐしていた。
里桜。
それは竜糸の竜神に仕える、竜神の声をきくことのできる少女が持つ特別な役割で、神の代理を務める少女の呼び名。「その里桜さまの命で、君たちは来たのだろう? 僕のなかの鬼を払うなど、そのついででしかない。そうだろう?」
すべてを悟ったのか、未晩が穏やかな声色で尋ねると、三人のなかで一番礼儀正しそうな蒼い髪の青年が笑顔で応える。
「そうですね。逆さ斎である貴方なら鬼に身を滅ぼされるという可能性は殆どないでしょうからね。闇の瘴気を竜糸の地にばらまかない限りは、危害を与えるつもりは
* * * わからないのならば仕方がない。 十年先、汝の生まれし日が訪れるそのときまで俺のちからは封じられたままなのだから。 だが、我が遺した膨大なちからを、母神に預けたフレ・ニソルの加護を汝の成長した心身に解き放つときが来たれば、すべては安易に理解できよう。 朱華(あけはな)――汝、ルヤンペアッテの眠れる竜たちとともに、異界の幽鬼を斃すちからを持った、選ばれし裏緋寒の愛玩乙女よ…… * * * ――ずっと、曖昧だった夢の最後の言葉が、朱華の耳元に囁かれていた。 「茜桜……?」 目の前では怒りに身体を震わせた未晩が、朱華の肩を強く抱いたまま、神術で桜月夜へ攻撃をつづけている。未晩の身体は闇鬼に乗っ取られてしまったのだろうか? けれど、桜月夜の三人の守人は未晩からの攻撃を防ぐだけで、攻撃することがない。未晩とともに朱華まで害する危険があるからだろうか。 朱華の囁きに、未晩が顔を強張らせる。「まさか、記憶が……?」 未晩の言葉に、朱華は無言で首を振る。何かが違う。朱華は茜桜などという男といままでに逢ったこともなければ名前すら知らなかった。つい十日前から夢にでてきて意味不明なことを朱華に語りつづけていた不思議なひと。いきなり封印がどうのこうのなどと言われても理解できるわけがない。 そんな朱華に安心したのか、未晩がふっと柔らかな笑みを見せる。ふだんと同じ、ふたりきりで暮らしているときの、穏やかな微笑。 だが、そこを夜澄は見逃さなかった。 「Asusun asusun tussay matu――綱の輪を引け我が竜蛇!」 朱華の肩を抱えていた未晩の腕が、地中から現れた湾曲した蛇のような細長いものによって引き離され、朱華の身体が宙に浮く。悲鳴をあげる間もなく朱華の身体は夜澄に奪われていた。 唖然とする未晩を颯月が瞬時に昏倒させ、星河がほうと息をつく。「神無の逆
ひとと神とがともに生きる”かの国”が産声をあげたのは数千年ほど昔のこと。 ぽかりと海に浮かぶよっつの小大陸とそこへ連なる星屑のような島々が国の領土とされた。 東西南北、北から南へ流れるように縦に細長いその国の最高権力者は、神皇帝(しんのうてい)と名乗った。 神皇は国民からこの国を興した国祖とされる始祖神の『地』の加護を宿した息子と慕われ、その玉座は代々、始祖神の血を引く皇(すめらぎ)一族によって、継承されている。 彼らは始祖神だけでなく、彼の姐神とされる天空を統べる神――至高神が産み落とした『天』のちからを持つ人間とも関係を持ち、国の統治を確かなものにしていた。 だが、東西南北の小大陸のなかで、北に位置する北津海(きたつうみ)の大陸……北海大陸だけは、神皇の『地』のちからが通用しなかった。 古代より神々と幽鬼と呼ばれる異形のモノとが争うその北の大地には、すでにその土地神と呼ばれる至高神の数多のこどもたちが、始祖神が人間の息子と国を興す以前より、この土地で生きていた先住民のために、幽鬼と対抗するためのちからを各々に振りまいていたからである。 先住民たちは部族ごとに『雨』、『風』、『雷』、『雲』、『雪』の加護を持っていた。集落ごとに異なる土地神に護られながら暮らす彼らは加護のちからの強弱関係なしにカイムの民と呼ばれ、土地神とともに幽鬼からの脅威と戦っていた。 そのことに深く感銘したときの神皇は、すこしでも力になればと帝都にいた『天』の少女をカイムの地へ送り出した。彼女は土地神たちの連携を強める巫女姫として活躍し、カイムの地で『雲』の男性との間に子を残した。天神の娘と呼ばれた彼女の子孫は『天』のちからを引き継ぎ、各集落の土地神とともにいまもなお神職に携わっているとされる。 しかし、三十以上存在していた集落も、激しい幽鬼との争いで気づけば十二にまで減少し、土地神が与えた加護を持つ主要な部族も『雨』、『雪』、そして少数部族の『風』のみとなってしまった。 なぜなら、集落の要である土地神にも、人間同様に寿命というものが存在したから…… 幽鬼との戦いで命を落とした神をはじめ、千年近い天寿を
* * * 「……って話は師匠からきいたことがあったけど。まさか自分がその神嫁?」 信じられないと朱華は溜め息をつき、目の前に並ぶ昼餐に困惑する。 それは、青菜と芋と雑穀とわずかな味噌で生活していた朱華には考えられない豪勢な食事。 竜糸の最南に面する|冠理海《かんむりかい》より朝一で運ばれてきたのであろう新鮮な魚は刺身にされ、透き通った菊の花のように青磁の皿の上を飾っている。野菜は|美蒼岳《びそうたけ》の麓で採れたものだろう、新春の悦びを表現するかのように|款冬《ふきのとう》や|接骨木《にわとこ》の黄緑の若芽が目にも鮮やかな天ぷらにされている。 見慣れない肉はどうやら鹿を焼いたもののようだ。鼻孔に香ばしい匂いが届き、思わず湧き上がる唾液を呑み込んでしまう。 そのうえ、炊きたてのつやつやの白米には|乳酪《バター》が乗せられ、トロトロと溶けながら芳しい香りを漂わせている。そのままでも充分美味しそうなのに、醤油や塩を好みで乗せて桜月夜の三人は気兼ねなく食べている。 朝食を食べ損ねた朱華はおそるおそる椀を手にとり、みそ汁を啜る。みそ汁にも魚が入っていたが、生臭さがまったくなかった。みそ汁を口にしたとたん黙り込んでしまった朱華に、颯月が咀嚼しながら話を切り出す。「信じたくないのは仕方ないけど、ボクたちは里桜さまに命令されてキミを連れてきんだ」 「不安なのは仕方ないでしょうが、悪いようにはしないとおっしゃってましたよ」 颯月の言葉に同調するように、星河もにこやかに応える。だが、夜澄だけは仏頂面のまま、何も言わずに箸を動かしている。 朱華は曖昧に頷いてから白米を口に運ぶ。黄金色のとろける乳酪が絡んだ米粒は朱華の想像以上に美味なるものだったが、表情を変えることはできなかった。「……もっと美味そうに食え」 そんな朱華を横目に、夜澄がぼそりと呟く。けれど、夜澄の声を朱華はあっさり無視する。 たしかに、美味しい。だけど、表情が追いつかない。なぜ、自分は、神殿に召されて、こんな高貴なひとしか味わえない食事をしているのだろう。あのまま、未晩を置いてきて、
自分を引き取って育ててくれた銀髪の男性を想い、朱華は呻くように声を発する。 二十歳になったらほんとうの家族になろう。そう言ってくれた未晩。けれど彼は、朱華の知らない間に、朱華の記憶を都合のよい方向へ塗り替えていた。なぜ? 「――二十歳の誕生日に、封印が紐解かれる」 考え込んでいた朱華を引き戻すように、夜澄の低い声が響く。「それ……なんで、あなたが」 ハッとして夜澄を見れば、彼は何食わぬ顔で天ぷらを頬張っている。そんな夜澄を見て、颯月が苦笑する。「きくだけ無駄だよ。彼は自分が言いたいことしか告げないから」 「でも。そのとおりなの。あたしは次の誕生日を迎えたら……ちからを手に入れる」 声に出して、はじめて実感した。 何度も夢で告げられた茜桜の言葉。その真意を掴めたのは、未晩が桜月夜と敵対する姿勢をとったちょうどそのとき。「それで、師匠は二十歳になったら、あたしを自分の妻にしようと……?」 たとえ強力な加護を持たなくても、集落の神殿へ夫婦神の誓いを吟じ、その後夫婦の契りを交わせば夫は妻の、妻は夫の加護を受けることが可能になる。 未晩が欲していたのが、朱華に封じられていた神のちからだとしたら……「そんなことを考えていたんですかあの年齢不詳な逆さ斎は」 蒼白になった朱華を宥めるように、あえて茶化すように星河が切り返す。「そう考えたら、ぜんぶ、納得できる」 だから、神殿の要求を、彼は拒んだのだ。ちからを手にした朱華がいつの日か土地神に見初められることを、予め知っていたから。 それゆえ、彼は闇鬼を浄化することなく心の裡に隠し持っていたのだ。 朱華が嫁されるであろう土地神に対抗するために。 自らを鬼にしてまで……? 俯く朱華に、颯月が明るく声をかける。「大丈夫だよ、彼のなかの闇鬼を動かした瘴気の大半は、ボクが払っておいたから」 「……え?」 いつの間に。 朱華は箸を動かす手を止め
「それに、彼は里桜さまとおなじ逆さ斎だから、あとのことは自分で対処できることでしょう」 「逆さ斎……」 朱華はここにきて何度も耳にするようになったその言葉を反芻する。 それは、土地神の加護を持たない集落で生み出された特別な術者のこと。神謡によればその地には最初、土地神がいたらしいが、人間との色恋沙汰で殺されてしまったとされている。そのため、神に逆らってまで土地に仕える人間たちを他の集落の土地神が逆さまの斎と揶揄したことで、逆さ斎、逆斎などという呼び名がカイム全体へ知られるようになる。 なかでも、神無き集落を護る一族は「逆井(さかさい)」の姓を名乗れるほどの勢力を持ち、五つの加護に似たちからを扱えることから、他集落の神殿などに召されているともきく。当初は『天』を偽る外法遣いなどという軽蔑も受けていたが、いまでは幽鬼を人間ながらに消滅させることのできる逆井一族にしか扱えない独自のちからは土地神たちにも認められている。 たぶん、里桜はその、認められた逆さ斎……逆井に属しているのだろう。 姓を持たない未晩と違って。「どうして、教えてくれなかったんだろう」 朱華はずっと未晩が『天』の人間だと思っていた。まさか彼が神のいない集落、神無の出身で、加護を持たずに数多の神術をこなしているとは、考えもしなかった。「逆井を名乗れない加護なしの術者は、弱いながらも正統な土地神の加護を持つ人間よりも劣る、なんて言われてますからね。男の意地でしょう」 あっさり応える星河に、朱華は思わずぷっと吹き出してしまう。「お、男の意地って……でも、師匠ならありうるかも」 孤児になった朱華を引き取り、診療所の手伝いをさせながら面倒を見てくれた未晩。 たとえ記憶が改竄されているとしても、朱華が彼と一緒に暮らしたすべてが無になってしまうことは、ありえない。 彼が姓を持たない逆さ斎で、朱華に封じられている土地神の加護を欲して、自分を傍に置いて、将来自分のちからとするために記憶を変え、ときが訪れたら妻神となるよう仕組んでいたとしても……「たぶん、あたしは師匠を許すと思
朝衣のまま連れられてきた朱華は食事を終えたのち、里桜の侍女をしている雨鷺(うさぎ)という女性に案内されて湯浴みをした。浴場はひとりで湯につかるのがいたたまれないほどに広大で、なみなみと注がれた湯船には甘ったるい香りのする桜によく似た苔桃色の花びらが敷き詰められていた。なんでも、遠く帝都より神皇帝から送られてきた外つ国の花だという。「薔薇(そうび)と申しまして、美容にとてもよろしいんだそうです。やはり外つ国でも高貴な身分の方しか使えないという貴重な花なんだとか」 雨鷺は焦げ茶色の髪と瞳を持つ典型的な『雨』の少女だ。同じルヤンペアッテでありながら表現しづらい玉虫色の髪と菫色の瞳という朱華からすると羨ましい容姿である。だが、雨鷺は朱華の髪の美しさに感嘆の声をあげてくれた。「黒にも茶にも他の色にもとれるこの不思議な髪の色こそ神々に愛された印ではありませんか! きっと里桜さまもお喜びになりますよ」 湯あがりにも薔薇の花でつくられたという化粧水を全身に塗られ、朱華の未成熟な身体が磨かれていく。美容によい薬草を化粧水にして使うという話は未晩から教わっていたものの、まさかこんな風に自分の身体に使われる日がやってくるとは思わなかった。「……恥ずかしいわ」 髪から足先に至るまで甘ったるい薔薇の香りが漂う身体に困惑しながら、朱華は雨鷺に手渡された衣へ腕を通す。銀糸で八重桜の刺繍がされた瞳の色を透かしたような白菫色の袿は軽く、まるで神謡に謳われる始祖神の御遣いである天女たちが纏っていたという羽衣のようだ。「よくお似合いですよ。お眠りになられている竜神さまもこんな愛らしい花嫁さまに起こされたら二度寝もできませんって!」 「そういえば、竜神さまはまだ……」 竜糸の土地神は竜神さまと民から呼ばれているが、その実態を目にした人間は皆無といってよい。なぜなら竜神は神殿敷地内にある湖で百年以上前から眠ったままの状態だから。 なんでも、数百年前に起きた幽鬼の襲来で滅んだ集落のちからを引きこんだ際にひどく疲労してしまったからだとか。 そして、眠りにつく直前に彼が神職者たちへ命じたのが、竜糸という集落
土地神が施した竜糸の結界を護っているのは事実上、ふたりでひとつの代理神とされる里桜と大樹と呼ばれる男女の術者である。そのうちの片割れがいなくなってしまったということは、いま、この竜糸の結界は里桜ひとりが保っているということ。 すなわち――いつ幽鬼に襲われてもおかしくない、ということ。 朱華は押し殺した声で雨鷺に訊ねる。「竜糸の代理神は神皇帝の勅命によって選ばれた尊きお方。それなのに、いなくなっちゃったってどういうこと? まさか、もう幽鬼に」 「いえ。大樹さまは生きておられます。どこかで。それゆえ、神殿はややこしい状況に置かれているみたいなのです……わたしは『雨』のちからしか扱えないため、それがどういう状況なのかすべて理解できるわけではないのですが」 雨鷺はそれだけ口にすると、仔細は里桜さまがお話になりますから、と朱華を神殿内の最奥部の室へやへ案内すると、ぺこりと礼をしてその場から去ってしまった。 ぎぃ、と黒檀の扉が閉まり、取り残された朱華は四方を乳白色の石壁に囲まれた状態になる。天井は高く、氷柱のような透明な水晶が幾つも垂れ下がっている。一歩、足を動かすと踵の高い沓がかん高い音を立てる。床の材質が、木から石に変わっていた。その先に、同じ石で作られたであろう立方体の箱がみっつ、不規則に並んでいる。術具でも仕舞ってあるのだろうか。 まるで、外部からの侵入を拒否するような、荘厳な雰囲気を持つ空間だ。竜神の花嫁候補だという朱華を閉じ込めるための檻なのではないかと思えなくもない。 ――どうしよう。 その場にしゃがみこみ、溜め息をつく。「……代理神が、半神になったから、こんなことになったのね」 ふたりでひとつの神として竜糸を護っていた里桜と大樹。神の代理を任される術者は国の最高権力者である神皇帝によって選ばれ、その集落で土地神に仕えることを誓わされる。 引き継ぐのは、術者が婚姻をして一線を退くか、もしくは死んだときだけ。基本的に婚姻による引退が多いため、代理神に選ばれる術者の平均年齢は低い。ただ、不慮の事態というものは存在するため、自分
この非常事態に神殿は土地神を起こして結界を完全な状態に戻す方法を選ぶしかないのだろう。そのために花嫁を差し出すという手段は有効である。 だが、過去の幽鬼との戦いでちからを使いすぎたために深い眠りに落ちた竜神を無理矢理起こしてもいいものなのだろうか。 ――でも、竜神さまを起こすために、竜糸の神殿にいる人間以外で、強いちからを持つ少女が必要だったから、桜月夜は師匠のところで何も知らずにいたあたしを迎えに来たんだよね? 土地神の強力な加護を持つ神術者、もしくはそれとは逆に土地そのものに忠誠を誓うことでちからを手に入れ逆さ斎でありながら神皇帝に認められた逆井一族。竜糸の地には眠りについた竜神の代理として『天』の血統にあたる大樹と逆井一族の里桜が君臨している。そのふたりを補佐するのもまた、桜月夜の守人と呼ばれる強い加護を持つ神職者たち。 代理神と桜月夜の守人と比べると、姓を持たない逆さ斎の未晩のちからは弱い。だが、その未晩のもとですこしずつ学び、五つの加護に沿った神術体系をひととおり取得している朱華には、竜神と旧知のあいだにあるという茜桜が封じた未知数のちからが隠されている。竜神と交流することのできる代理神なら、朱華になんらかのちからが封じられていることも、事前に察知できたに違いない。 だから、未晩は朱華のちからが完全なものになったらすぐに夫婦神の誓いを吟じさせ、神殿に騙し討ちするような形で自分のものにしたかったのだろう。 裏緋寒の乙女が必要となった際の神殿に、朱華の存在を感づかれる前に。 けれど大樹がいなくなってしまったことで、神殿は慌てて竜神の花嫁候補を探すことになり、封印が解かれる前の朱華に白羽の矢が立ってしまった。 つまりそれは、未晩の目論見が、外れたということ。 自分の妻にしようと記憶を操作してまで傍に置いていたのに、あっさり神殿に連れて行かれた朱華が竜神の花嫁にされることを、彼はどう思うのだろう。 「……だめだ。ぜんぜんわからないや」 父代わり、兄代わり、そして恋人代わりとして傍において溺愛してくれた未晩のこと
この非常事態に神殿は土地神を起こして結界を完全な状態に戻す方法を選ぶしかないのだろう。そのために花嫁を差し出すという手段は有効である。 だが、過去の幽鬼との戦いでちからを使いすぎたために深い眠りに落ちた竜神を無理矢理起こしてもいいものなのだろうか。 ――でも、竜神さまを起こすために、竜糸の神殿にいる人間以外で、強いちからを持つ少女が必要だったから、桜月夜は師匠のところで何も知らずにいたあたしを迎えに来たんだよね? 土地神の強力な加護を持つ神術者、もしくはそれとは逆に土地そのものに忠誠を誓うことでちからを手に入れ逆さ斎でありながら神皇帝に認められた逆井一族。竜糸の地には眠りについた竜神の代理として『天』の血統にあたる大樹と逆井一族の里桜が君臨している。そのふたりを補佐するのもまた、桜月夜の守人と呼ばれる強い加護を持つ神職者たち。 代理神と桜月夜の守人と比べると、姓を持たない逆さ斎の未晩のちからは弱い。だが、その未晩のもとですこしずつ学び、五つの加護に沿った神術体系をひととおり取得している朱華には、竜神と旧知のあいだにあるという茜桜が封じた未知数のちからが隠されている。竜神と交流することのできる代理神なら、朱華になんらかのちからが封じられていることも、事前に察知できたに違いない。 だから、未晩は朱華のちからが完全なものになったらすぐに夫婦神の誓いを吟じさせ、神殿に騙し討ちするような形で自分のものにしたかったのだろう。 裏緋寒の乙女が必要となった際の神殿に、朱華の存在を感づかれる前に。 けれど大樹がいなくなってしまったことで、神殿は慌てて竜神の花嫁候補を探すことになり、封印が解かれる前の朱華に白羽の矢が立ってしまった。 つまりそれは、未晩の目論見が、外れたということ。 自分の妻にしようと記憶を操作してまで傍に置いていたのに、あっさり神殿に連れて行かれた朱華が竜神の花嫁にされることを、彼はどう思うのだろう。 「……だめだ。ぜんぜんわからないや」 父代わり、兄代わり、そして恋人代わりとして傍において溺愛してくれた未晩のこと
土地神が施した竜糸の結界を護っているのは事実上、ふたりでひとつの代理神とされる里桜と大樹と呼ばれる男女の術者である。そのうちの片割れがいなくなってしまったということは、いま、この竜糸の結界は里桜ひとりが保っているということ。 すなわち――いつ幽鬼に襲われてもおかしくない、ということ。 朱華は押し殺した声で雨鷺に訊ねる。「竜糸の代理神は神皇帝の勅命によって選ばれた尊きお方。それなのに、いなくなっちゃったってどういうこと? まさか、もう幽鬼に」 「いえ。大樹さまは生きておられます。どこかで。それゆえ、神殿はややこしい状況に置かれているみたいなのです……わたしは『雨』のちからしか扱えないため、それがどういう状況なのかすべて理解できるわけではないのですが」 雨鷺はそれだけ口にすると、仔細は里桜さまがお話になりますから、と朱華を神殿内の最奥部の室へやへ案内すると、ぺこりと礼をしてその場から去ってしまった。 ぎぃ、と黒檀の扉が閉まり、取り残された朱華は四方を乳白色の石壁に囲まれた状態になる。天井は高く、氷柱のような透明な水晶が幾つも垂れ下がっている。一歩、足を動かすと踵の高い沓がかん高い音を立てる。床の材質が、木から石に変わっていた。その先に、同じ石で作られたであろう立方体の箱がみっつ、不規則に並んでいる。術具でも仕舞ってあるのだろうか。 まるで、外部からの侵入を拒否するような、荘厳な雰囲気を持つ空間だ。竜神の花嫁候補だという朱華を閉じ込めるための檻なのではないかと思えなくもない。 ――どうしよう。 その場にしゃがみこみ、溜め息をつく。「……代理神が、半神になったから、こんなことになったのね」 ふたりでひとつの神として竜糸を護っていた里桜と大樹。神の代理を任される術者は国の最高権力者である神皇帝によって選ばれ、その集落で土地神に仕えることを誓わされる。 引き継ぐのは、術者が婚姻をして一線を退くか、もしくは死んだときだけ。基本的に婚姻による引退が多いため、代理神に選ばれる術者の平均年齢は低い。ただ、不慮の事態というものは存在するため、自分
朝衣のまま連れられてきた朱華は食事を終えたのち、里桜の侍女をしている雨鷺(うさぎ)という女性に案内されて湯浴みをした。浴場はひとりで湯につかるのがいたたまれないほどに広大で、なみなみと注がれた湯船には甘ったるい香りのする桜によく似た苔桃色の花びらが敷き詰められていた。なんでも、遠く帝都より神皇帝から送られてきた外つ国の花だという。「薔薇(そうび)と申しまして、美容にとてもよろしいんだそうです。やはり外つ国でも高貴な身分の方しか使えないという貴重な花なんだとか」 雨鷺は焦げ茶色の髪と瞳を持つ典型的な『雨』の少女だ。同じルヤンペアッテでありながら表現しづらい玉虫色の髪と菫色の瞳という朱華からすると羨ましい容姿である。だが、雨鷺は朱華の髪の美しさに感嘆の声をあげてくれた。「黒にも茶にも他の色にもとれるこの不思議な髪の色こそ神々に愛された印ではありませんか! きっと里桜さまもお喜びになりますよ」 湯あがりにも薔薇の花でつくられたという化粧水を全身に塗られ、朱華の未成熟な身体が磨かれていく。美容によい薬草を化粧水にして使うという話は未晩から教わっていたものの、まさかこんな風に自分の身体に使われる日がやってくるとは思わなかった。「……恥ずかしいわ」 髪から足先に至るまで甘ったるい薔薇の香りが漂う身体に困惑しながら、朱華は雨鷺に手渡された衣へ腕を通す。銀糸で八重桜の刺繍がされた瞳の色を透かしたような白菫色の袿は軽く、まるで神謡に謳われる始祖神の御遣いである天女たちが纏っていたという羽衣のようだ。「よくお似合いですよ。お眠りになられている竜神さまもこんな愛らしい花嫁さまに起こされたら二度寝もできませんって!」 「そういえば、竜神さまはまだ……」 竜糸の土地神は竜神さまと民から呼ばれているが、その実態を目にした人間は皆無といってよい。なぜなら竜神は神殿敷地内にある湖で百年以上前から眠ったままの状態だから。 なんでも、数百年前に起きた幽鬼の襲来で滅んだ集落のちからを引きこんだ際にひどく疲労してしまったからだとか。 そして、眠りにつく直前に彼が神職者たちへ命じたのが、竜糸という集落
「それに、彼は里桜さまとおなじ逆さ斎だから、あとのことは自分で対処できることでしょう」 「逆さ斎……」 朱華はここにきて何度も耳にするようになったその言葉を反芻する。 それは、土地神の加護を持たない集落で生み出された特別な術者のこと。神謡によればその地には最初、土地神がいたらしいが、人間との色恋沙汰で殺されてしまったとされている。そのため、神に逆らってまで土地に仕える人間たちを他の集落の土地神が逆さまの斎と揶揄したことで、逆さ斎、逆斎などという呼び名がカイム全体へ知られるようになる。 なかでも、神無き集落を護る一族は「逆井(さかさい)」の姓を名乗れるほどの勢力を持ち、五つの加護に似たちからを扱えることから、他集落の神殿などに召されているともきく。当初は『天』を偽る外法遣いなどという軽蔑も受けていたが、いまでは幽鬼を人間ながらに消滅させることのできる逆井一族にしか扱えない独自のちからは土地神たちにも認められている。 たぶん、里桜はその、認められた逆さ斎……逆井に属しているのだろう。 姓を持たない未晩と違って。「どうして、教えてくれなかったんだろう」 朱華はずっと未晩が『天』の人間だと思っていた。まさか彼が神のいない集落、神無の出身で、加護を持たずに数多の神術をこなしているとは、考えもしなかった。「逆井を名乗れない加護なしの術者は、弱いながらも正統な土地神の加護を持つ人間よりも劣る、なんて言われてますからね。男の意地でしょう」 あっさり応える星河に、朱華は思わずぷっと吹き出してしまう。「お、男の意地って……でも、師匠ならありうるかも」 孤児になった朱華を引き取り、診療所の手伝いをさせながら面倒を見てくれた未晩。 たとえ記憶が改竄されているとしても、朱華が彼と一緒に暮らしたすべてが無になってしまうことは、ありえない。 彼が姓を持たない逆さ斎で、朱華に封じられている土地神の加護を欲して、自分を傍に置いて、将来自分のちからとするために記憶を変え、ときが訪れたら妻神となるよう仕組んでいたとしても……「たぶん、あたしは師匠を許すと思
自分を引き取って育ててくれた銀髪の男性を想い、朱華は呻くように声を発する。 二十歳になったらほんとうの家族になろう。そう言ってくれた未晩。けれど彼は、朱華の知らない間に、朱華の記憶を都合のよい方向へ塗り替えていた。なぜ? 「――二十歳の誕生日に、封印が紐解かれる」 考え込んでいた朱華を引き戻すように、夜澄の低い声が響く。「それ……なんで、あなたが」 ハッとして夜澄を見れば、彼は何食わぬ顔で天ぷらを頬張っている。そんな夜澄を見て、颯月が苦笑する。「きくだけ無駄だよ。彼は自分が言いたいことしか告げないから」 「でも。そのとおりなの。あたしは次の誕生日を迎えたら……ちからを手に入れる」 声に出して、はじめて実感した。 何度も夢で告げられた茜桜の言葉。その真意を掴めたのは、未晩が桜月夜と敵対する姿勢をとったちょうどそのとき。「それで、師匠は二十歳になったら、あたしを自分の妻にしようと……?」 たとえ強力な加護を持たなくても、集落の神殿へ夫婦神の誓いを吟じ、その後夫婦の契りを交わせば夫は妻の、妻は夫の加護を受けることが可能になる。 未晩が欲していたのが、朱華に封じられていた神のちからだとしたら……「そんなことを考えていたんですかあの年齢不詳な逆さ斎は」 蒼白になった朱華を宥めるように、あえて茶化すように星河が切り返す。「そう考えたら、ぜんぶ、納得できる」 だから、神殿の要求を、彼は拒んだのだ。ちからを手にした朱華がいつの日か土地神に見初められることを、予め知っていたから。 それゆえ、彼は闇鬼を浄化することなく心の裡に隠し持っていたのだ。 朱華が嫁されるであろう土地神に対抗するために。 自らを鬼にしてまで……? 俯く朱華に、颯月が明るく声をかける。「大丈夫だよ、彼のなかの闇鬼を動かした瘴気の大半は、ボクが払っておいたから」 「……え?」 いつの間に。 朱華は箸を動かす手を止め
* * * 「……って話は師匠からきいたことがあったけど。まさか自分がその神嫁?」 信じられないと朱華は溜め息をつき、目の前に並ぶ昼餐に困惑する。 それは、青菜と芋と雑穀とわずかな味噌で生活していた朱華には考えられない豪勢な食事。 竜糸の最南に面する|冠理海《かんむりかい》より朝一で運ばれてきたのであろう新鮮な魚は刺身にされ、透き通った菊の花のように青磁の皿の上を飾っている。野菜は|美蒼岳《びそうたけ》の麓で採れたものだろう、新春の悦びを表現するかのように|款冬《ふきのとう》や|接骨木《にわとこ》の黄緑の若芽が目にも鮮やかな天ぷらにされている。 見慣れない肉はどうやら鹿を焼いたもののようだ。鼻孔に香ばしい匂いが届き、思わず湧き上がる唾液を呑み込んでしまう。 そのうえ、炊きたてのつやつやの白米には|乳酪《バター》が乗せられ、トロトロと溶けながら芳しい香りを漂わせている。そのままでも充分美味しそうなのに、醤油や塩を好みで乗せて桜月夜の三人は気兼ねなく食べている。 朝食を食べ損ねた朱華はおそるおそる椀を手にとり、みそ汁を啜る。みそ汁にも魚が入っていたが、生臭さがまったくなかった。みそ汁を口にしたとたん黙り込んでしまった朱華に、颯月が咀嚼しながら話を切り出す。「信じたくないのは仕方ないけど、ボクたちは里桜さまに命令されてキミを連れてきんだ」 「不安なのは仕方ないでしょうが、悪いようにはしないとおっしゃってましたよ」 颯月の言葉に同調するように、星河もにこやかに応える。だが、夜澄だけは仏頂面のまま、何も言わずに箸を動かしている。 朱華は曖昧に頷いてから白米を口に運ぶ。黄金色のとろける乳酪が絡んだ米粒は朱華の想像以上に美味なるものだったが、表情を変えることはできなかった。「……もっと美味そうに食え」 そんな朱華を横目に、夜澄がぼそりと呟く。けれど、夜澄の声を朱華はあっさり無視する。 たしかに、美味しい。だけど、表情が追いつかない。なぜ、自分は、神殿に召されて、こんな高貴なひとしか味わえない食事をしているのだろう。あのまま、未晩を置いてきて、
ひとと神とがともに生きる”かの国”が産声をあげたのは数千年ほど昔のこと。 ぽかりと海に浮かぶよっつの小大陸とそこへ連なる星屑のような島々が国の領土とされた。 東西南北、北から南へ流れるように縦に細長いその国の最高権力者は、神皇帝(しんのうてい)と名乗った。 神皇は国民からこの国を興した国祖とされる始祖神の『地』の加護を宿した息子と慕われ、その玉座は代々、始祖神の血を引く皇(すめらぎ)一族によって、継承されている。 彼らは始祖神だけでなく、彼の姐神とされる天空を統べる神――至高神が産み落とした『天』のちからを持つ人間とも関係を持ち、国の統治を確かなものにしていた。 だが、東西南北の小大陸のなかで、北に位置する北津海(きたつうみ)の大陸……北海大陸だけは、神皇の『地』のちからが通用しなかった。 古代より神々と幽鬼と呼ばれる異形のモノとが争うその北の大地には、すでにその土地神と呼ばれる至高神の数多のこどもたちが、始祖神が人間の息子と国を興す以前より、この土地で生きていた先住民のために、幽鬼と対抗するためのちからを各々に振りまいていたからである。 先住民たちは部族ごとに『雨』、『風』、『雷』、『雲』、『雪』の加護を持っていた。集落ごとに異なる土地神に護られながら暮らす彼らは加護のちからの強弱関係なしにカイムの民と呼ばれ、土地神とともに幽鬼からの脅威と戦っていた。 そのことに深く感銘したときの神皇は、すこしでも力になればと帝都にいた『天』の少女をカイムの地へ送り出した。彼女は土地神たちの連携を強める巫女姫として活躍し、カイムの地で『雲』の男性との間に子を残した。天神の娘と呼ばれた彼女の子孫は『天』のちからを引き継ぎ、各集落の土地神とともにいまもなお神職に携わっているとされる。 しかし、三十以上存在していた集落も、激しい幽鬼との争いで気づけば十二にまで減少し、土地神が与えた加護を持つ主要な部族も『雨』、『雪』、そして少数部族の『風』のみとなってしまった。 なぜなら、集落の要である土地神にも、人間同様に寿命というものが存在したから…… 幽鬼との戦いで命を落とした神をはじめ、千年近い天寿を
* * * わからないのならば仕方がない。 十年先、汝の生まれし日が訪れるそのときまで俺のちからは封じられたままなのだから。 だが、我が遺した膨大なちからを、母神に預けたフレ・ニソルの加護を汝の成長した心身に解き放つときが来たれば、すべては安易に理解できよう。 朱華(あけはな)――汝、ルヤンペアッテの眠れる竜たちとともに、異界の幽鬼を斃すちからを持った、選ばれし裏緋寒の愛玩乙女よ…… * * * ――ずっと、曖昧だった夢の最後の言葉が、朱華の耳元に囁かれていた。 「茜桜……?」 目の前では怒りに身体を震わせた未晩が、朱華の肩を強く抱いたまま、神術で桜月夜へ攻撃をつづけている。未晩の身体は闇鬼に乗っ取られてしまったのだろうか? けれど、桜月夜の三人の守人は未晩からの攻撃を防ぐだけで、攻撃することがない。未晩とともに朱華まで害する危険があるからだろうか。 朱華の囁きに、未晩が顔を強張らせる。「まさか、記憶が……?」 未晩の言葉に、朱華は無言で首を振る。何かが違う。朱華は茜桜などという男といままでに逢ったこともなければ名前すら知らなかった。つい十日前から夢にでてきて意味不明なことを朱華に語りつづけていた不思議なひと。いきなり封印がどうのこうのなどと言われても理解できるわけがない。 そんな朱華に安心したのか、未晩がふっと柔らかな笑みを見せる。ふだんと同じ、ふたりきりで暮らしているときの、穏やかな微笑。 だが、そこを夜澄は見逃さなかった。 「Asusun asusun tussay matu――綱の輪を引け我が竜蛇!」 朱華の肩を抱えていた未晩の腕が、地中から現れた湾曲した蛇のような細長いものによって引き離され、朱華の身体が宙に浮く。悲鳴をあげる間もなく朱華の身体は夜澄に奪われていた。 唖然とする未晩を颯月が瞬時に昏倒させ、星河がほうと息をつく。「神無の逆
「ウラヒカン? なに……」 きいたことのない言葉が朱華の耳に届く。 けれど男は未晩の言葉を無視して硝子のような琥珀色の瞳で朱華に向き直り、言葉を遮る。「こちらこそ訊きたい。お前はこの男の何を知っているんだ? お前はこいつに何を求め、その見返りに何を与えようとしていたのか?」 氷のような視線を投げかけられ、朱華は言葉を震わせる。「し、師匠は、あたしが孤児になったのを拾ってくれて……」 「どうして孤児になったんだ? それまでお前はどこで何をしていた?」 厳しい言葉が朱華に襲いかかる。未晩は抵抗を諦めたのか、がっくりと頭を垂れて呻き声を漏らしている。「朱華は、十年前の流行病で親を失ったんだ。それで」 「お前には訊いていない。神無(かむなし)の逆さ斎」 遮るように言い返した男の言葉に、朱華は目をまるくする。「……え? サカサイツキ?」 ――師匠は逆さ斎なの? 至高神に愛された『天(カシケキク)』の末裔じゃないの? 朱華の問いかけるような視線を受けた未晩は、ふっと淋しそうに微笑を浮かべ、しずかに頷く。 翡翠色の瞳に、陰りが生まれる。「まさか僕のことを知っているとはな。さすが桜月夜」 「里桜(さとざくら)さまはすべてお見通しですから」 場違いなほど朗らかな緋色の髪の少年の声が、緊張しきっていた空気を知らず知らずのうちにほぐしていた。 里桜。 それは竜糸の竜神に仕える、竜神の声をきくことのできる少女が持つ特別な役割で、神の代理を務める少女の呼び名。「その里桜さまの命で、君たちは来たのだろう? 僕のなかの鬼を払うなど、そのついででしかない。そうだろう?」 すべてを悟ったのか、未晩が穏やかな声色で尋ねると、三人のなかで一番礼儀正しそうな蒼い髪の青年が笑顔で応える。「そうですね。逆さ斎である貴方なら鬼に身を滅ぼされるという可能性は殆どないでしょうからね。闇の瘴気を竜糸の地にばらまかない限りは、危害を与えるつもりは